母親の出来物が治り、仕事が始められるようになったが、ヒモおじさんの機嫌を損ねないようにビクビクした生活が続いた。
暴力はエスレートするばかりだった。まり子は子供ながらに母親を庇い突き飛ばされることもあり、夜道を泣きながらに逃げまどった。おじさんが寝静まった頃合いに、忍び足で戻るパターンなのだ。まり子には、どうしてこんな悪い人と一緒にいなければいけないのか不思議だった。母親は、子供の為と思い、暴力に耐え、バラックでも屋根の下の生活を捨てきれなかったのだろうか。
そんな中、まり子は小学校一年生となる。母親は、工面して最小限必要な物を揃えてくれた。ビニール素材の花柄のランドセルと、当時は有料だった教科書だ。嬉しかった。小躍りした。
通い始めると、他の子供たちと比べ、自分の貧しいなりに引け目を感じた。
勉強は好きだった。みかん箱を机替わりにした。ノートを使い終わると、そのノートを消しゴムで消して使った。鉛筆も短かくなるのが不安だった。上履きも体操着も無い。
そんなまり子を、たちまち同級生たちはからかい始めた。
特にみじめな思いをしたのは昼食時間。給食も有料のため、まり子は一人弁当だった。
アルミの弁当箱に薩摩芋を潰したものや、おからが入っていたりした。見られないように隠すようにして食べた。弁当がない時もあったが、そんな時は「お腹がすいていないから」とその場をやり過ごした。
ある時、パサパサな白米(タイ米と思われる。)に味噌が乗っているだけの弁当だったことがある。
どこにでもいるような悪戯っこが、先生がいないことをいい事に「弁当見せろ!」と奪いとった。
「こいつの弁当。味噌だ~」と囃し立てた。まわりの2、3人がすぐに同調し、先生が戻るまで意地悪くからかった。
悲しくて、しくしくと泣いた。戻って来た先生は、その様子に、悪戯どもを厳しくしかった。先生が宥めてくれた。余計に涙が溢れた。女の優しい先生だった。
まり子はこの事を母親には話さなかった。母親も、ろくに食べていない事を分かっていたからだ。心配をかけたくなかった。
悪戯共は、その後も先生の目を盗んでは、悪態つくことをやめなかった。
続く・・・・